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2012/05/21

「はじめての植物画」を終えて

昨日、中央植物園主催の「はじめての植物画」の講座を受けてきました。

復習を兼ねて早速、今朝描いてみました。

お題はスイートピー。毎月、フナケンさんこと、アビコ印刷の舟橋健さんより「元気のコトバ」のDMをいただいているのですが、そのお返し葉書を描きました。

スイートピーの植物画

(クリックしたら拡大します)

さて、絵に添えた言葉ですが、幸田露伴「努力論」より拾ってきました。露伴のいいたいこととは微妙にニュアンスが違うのですが、書きあらわそうとすると長くなるので、インパクトが強い箇所のみまとめました。

2012/05/08

張る気

努力論
幸田 露伴著

努力論、二度読みしました。

著書では、前半は幸福論について、後半は「気」の世界について書かれています。前半の幸福論だけ読んでもいいのですが、幸福になるために、間違った努力をしないように戒めている後半部分も味があります。

眠いのに頑張ったり、結果をもとめたりするのではなく、「気の張り」をもって自然に物事をこなすこと、これが大事といいます。夢中になるような状態ですが、暴走するのは「凝る気」といい、これもよくない。全体を見つつ、自然と広がっていくイメージが大切なのです。

「凝る気」については、誤解されやすいので、具体的な例を挙げて説明されています。例えば事業において努力しているといって、自分よがりな努力で人に迷惑をかける場合。この努力は「張る気」の努力ではなく「凝る気」のなしたもの。

芸術家が「人に褒められたい、世にも喜ばれたい、善報厚酬を得たい」と思いつつ、絵をはじめるとき。そんな動機の段階は「張る気」「凝る気」のどちらにも転がりやすい状態です。

絵を描いているうちに夢中になり、人に褒められたいという気持ちがなくなる状態、この瞬間が「張る気」といいます。

では「気」とはなにか?著者は、「器と非器の交渉のところ」といいます。器とは身体、非器はそれ以外の心の部分。わかりやすい例を挙げると、心で思っていることを、身体で表現するための伝達手段ってのが「気」です。

心を清らかにしなければ、「気」が「凝った気」「散った気」になってしまう。心を清らかなものにすれば「気」が福を導いてくれる。

そして、そうやって得た福を、自然(宇宙)のルールに従い、全て自分のものにしないようにしたら、もっと福を得ることができるよ、というのもというのがこの本全体の主旨だろう、と個人的に思いました。

「気」の部分は、朱子学的思想が色濃いのですが、複雑な現代社会には寧ろ新鮮に映ります。行動しなければ始まらない。社会や景気のせいにせず、まず自分で一歩踏み出してみることの大切さを教えてもらったような気がしました。

2012/05/05

惜福 分福 植福

努力論
幸田 露伴著

努力論、二度読みをはじめました。

努力論は、幸福についても書かれているのですが、人はいかにしたら幸福になれるのか?ってのを探っているようではダメだ、そんな独りよがりな努力は努力じゃない、と説きます。「道」を感じ取るべき、もっとおおらかな世の中の流れを感じ取り、その中に身をよせるべき、と説きます。

「努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。」

人のために尽くしたいといった行為は元より、人より裕福になりたい、偉くなりたい、といった行為が蓄積したことで、現在のような発展した世の中に私たちが暮らすことができる。獣や植物も獲物や水を求めたりして努力はしているのですが、努力の量と質が決定的に違う。そんなことができること、それが人間の「性の本然」といっているのではないか?と思います。

努力することで、一瞬でもいいのですがそうすることによって幸福になり、そのことの蓄積によって世の中が発展する。今のような難局で八方ふさがりな世の中でも努力すること、これが大切なのだ、と思います。

この幸福ですが、幸福感に浸り続けるのは難しい。それに対し、露伴は3つの考えを持つべきだ、といいます。

惜福。福をもったいない、と思い、それを全部、取り切らないこと。露伴は全部自分のものにしないで、一部を天に預けろ、と説いています。例えば思いのほか売り上げが上がっても、自分にご褒美といって喜んで使わず、売上げが上がったことに感謝しつつ貯蓄すること。これが惜福に即した生き方なのだ、と思います。

そして福を得たら、自分だけのものにしない。例えば酒を飲む場合も一人で飲まず、分けて喜びを分かち合うことが大切だ、といいます。家康は惜福派に対し、秀吉は分福派との例えが書いてあったのですが、この二つを理解するにはわかりやすいです。秀吉は部下に碌を与えることで、益々福を得ることができた、といいます。

ただ、この二つは欠点もあります。惜福は福が新たにやってこなければ、使い切ってしまう点、分福は、人に喜んでしまい自己満足で終わってしまう可能性がある点。

これを補うために、植福が必要といいます。福を植えることで、自分のために植える福もあれば、社会のために植える福もあります。

露伴は、「りんご」を例に。実がなる、といった有福に対し、多産して樹を枯れさせない「惜福」、豊かな実がなったら人に分け与える「分福」に加え、りんごを植える「植福」を勧めます。「植福」は自分の財をなすためでもあっても、困っている人を助けるためでもOK。このような行為、すなわち先人が福を植えたから社会が発展してきたわけで、りんご栽培といった農業だけではなく、工業も商業も、幸福を願い努力することも同じだ、といいます。

露伴はいいます。

「一撮(ひとつかみ)に余りある微少の種より摩天の大樹が生ずる」

メタファーを感じる語。人の本性である努力をすることで、小さな福が何倍もの福になるのでしょう。

露伴は、失敗するヤツに限って「運がない」と嘆くヤツが多い、といいます。成功するヤツは「自分の力だ」というのですが、結局、成功するヤツは陰で努力しているからだ、といいます。また、物事に向かう際、才能はなくても身体は変化するのだから努力すべきだ、といいます。その際、あれこれ広く手を出すのではなく、一芸に秀でるべきだ、と述べています。今の世の中に出回っている成功本ですが、露伴のいっていることと同じ。昔から「表面上の」成功の法則ってのは進歩がない、ともいえます。

現代は努力をしても成果が上がりにくい世の中ではありますが、差別化を図りつつ社会と共に生きていく。とかく成功論というと、個人主義と結びつきそうなのですが、露伴は広い宇宙の中に住む個人といったものに考えを落とし込む点が世の中にあふれている成功本と違うところであり、さらにその日本的なところが読んでいて無性に共感を憶えるのだろう、と思います。

努力論のメモ

2012/05/01

早朝散歩

休み中、PCから離れたためか、体調もよく、今朝は早起き。

超速読で、朝から本を4冊読みました。

本

というのも散歩中の思索のため。毎月1日は、墓参りと神社詣でを恒例行事にしているのですが、歩いている間、考えるネタが必要なため。歩く前に知識を詰め込んで、歩きながら熟成させると結構いい考えが生まれます。

5時半に会社を出て墓を参った後、日枝神社へ。

日枝神社

6時に神社についたのですが、神主さんらが朝の掃除をされていらっしゃいました。おまいりの際、太鼓を叩いていただけるのは早朝特典。

たんぽぽ

加賀乙彦さんがNHK第一「ラジオ深夜便」で、「祈るとは自分のために祈るのではない、神々を通して自分以外のために祈るのだ。」と話しておられたのですが、今回のお参りの際、なんとなくその理由がわかったような気がします。自分以外の対象物を分析し、利用しようとするのが科学。「神の世界を知る」ってのが近代科学の基本です。その考え方が行き過ぎ、科学の力で何でもできると思ったのが現代。

そして今。科学では説明できないものがいろいろある、とわかってくることが大切なのだろう、と思います。例えば、お医者さんってのは、病気を止めることはできるが病気を治すことはできない。植物が成長する現象はわかるが、勝手に芽が出てくる理由を説明することができない。そんな人の手が届かないところを知り、認めることが「祈る」行為なのだろう、と思います。

「そんな呑気なことを考えていても売上げは上がらない。商売繁盛のために祈るのだ。」と突っ込まれそうなのですが、商売繁盛のために努力しつつも、自分の力ではどうにもならないものを知り、認め、謙虚になることが大事なのであろう、と感じました。この「感じる」ってのが大事。五感を働かせていると言葉の前に、なんとなく感じるのです。

境内の花

神社境内の草花。みているだけで心が和みます。

大和跡地

GWのなか日ということで、休みのところも多いのでしょうか。街は車もなくひっそりとしていました。

2012/04/30

となみチューリップフェア 番外篇

日本人の美質
坂東 眞理子著

となみチューリップフェアに行く前に図書館で本を借りてきました。10冊借りてきたのですが、フェア会場で休憩している際、同郷人の方の、坂東眞理子さんの本を読みました。

いやはや凄い!震災後、自信をなくしかけている私たちに勇気を与えてくれる本です。坂東眞理子さんの文章は、読みやすい上に、おっかさんのような温かさがあります。たまに、難しいことを書いたり、高いところから見下ろしたように批判的な書き方をする方がいらっしゃるのですが、それは書き手の劣等感からくるもの。その点、坂東さんの文章を読んでいると、本質ってのは誰にでもわかるシンプルなものなんだろう、と思ってしまいます。

自分自身、3.11の悲劇後、経済って何だろう?とかなり悩みました。自分が正しい、と思っていた経済の発展、モノの豊かさってのが、こんなにも脆いものか、と思いつつも、マスコミをはじめとする外部環境は、震災前と同じ状況。マスコミが叫ぶ「頑張ろう」に、「頑張って経済を立て直せば幸せがやってくる」ってメッセージがこめられているような気がして、却って虚無感にかられていました。

坂東さんは言います。「物質的な成長というわかりやすい目標は、日本が経済成長をしているときには人々を幸福にする意味でうまく機能していました。」

震災後、消極的な選択として、今までの「成功」のスタンダードである「物質的な成長」を目指すものいいのですが、それに対し、坂東さんは「ちょっと待って!」といいます。この「ちょっと待って!」が、おっかさんの良さであり、女性ならではの視点で、どう進むべきか書かれています。

学生だったら勉強しなければならない、大人は仕事をしなければならない、ってのは当然のことなのですが、その理由を変えるべきだ、と言います。本を読んでいるうちに、経済的な幸福ってのは、幸福の中のほんの一部だ、とわかります。そして、時代によって形は変わるけれど、決してかわることのないモノ、水前寺清子さんがうたった「ボロは着てても心は錦」の「錦」を追い求めることが幸せなのではないか?とわかってきました。

さて、この本のタイトルに使われている「美質」。ちなみに「きれい」と「美」は違います。

ムスカリ

「きれい」は若い娘に使いますが、おばちゃんには使いません。(おばちゃんに対し、「きれいな着物」ですね、とほめることはありますが。)

「美」とは調和がとれていること。きれいなチューリップのディスプレイに対し、デザインの良さに感心することは元より、お世話をされている方々のことを思ったりすることが「美」なのだろう、と思います。

フェアでは、年配のスタッフの方が、丹念に落ち葉を拾っておられました。せっかく遠方より来られるのだから、ということで楽しんでもらいたいのだろう、と掃除されている方々を思う時。「きれい」を超えて「美」を垣間みることができるのだろう、と思います。

企業を維持するために金を回すことも大事なんですが、そんな「美」を追求し相手さまに喜んでいただくことで対価をいただくことが、震災後の企業経営のあり方ではないか? その際、新しい事業に手を出すような大きな改革をするのではなく、動的平衡の考え方、すなわち外見は変わらないように見えつつも、目には見えない心の部分を入れ替えていくことが大事なのでは? 本を読みつつ、さらにはフェアを楽しむことで、そんなことをふと感じました。