ホームページの本
毎週図書館に行くのですが、その際、必ず新刊コーナーをのぞきます。
今日は、掘り出し物を発見!
久々にホームページ関連の本を仕込んでくださいました。それにしてもホームページ関連の本が出ても、借り手がいないとは寂しい。SNSで忙しいのか? ホームページも一過性のブームだったのか? 借りられた嬉しさ反面、寂しくもあります。
ホームページの活用法
毎週図書館に行くのですが、その際、必ず新刊コーナーをのぞきます。
今日は、掘り出し物を発見!
久々にホームページ関連の本を仕込んでくださいました。それにしてもホームページ関連の本が出ても、借り手がいないとは寂しい。SNSで忙しいのか? ホームページも一過性のブームだったのか? 借りられた嬉しさ反面、寂しくもあります。
ブログの効用について研究するため、このブログ以外に「はてな」サービスを使ってブログを書いています。
こちら、Facebookの「いいね!」ボタンのようなスターがあります。気に入った記事にスターを押すもの。「いいね!」ボタンとは違い、何個も押す事もできます。
以前、Facebookをやっていたのですが、その時に押し続けていた「いいね!」に疲れたので、積極的に押しにいくことはないのですが、スターを押してくださる方の記事には、必ずスターを押し返すようにしています。興味のない記事は読み飛ばすこともあるのですが、時間の許す限り記事を読むようにしています。じっくり読む時間を取りたいので、なるべく友達を増やさないようにしています。
大阪のバーの店長のブログで、富山の方が亡くなられた記事を見つけました。
ちょうどその日は立山がキレイだったので、写真を撮って記事にしたところ、その店長からコメントをいただきました。その日は夕焼けもキレイだったので、それも載せたところ感激され記事にしたい、とのこと。
それなら、と、こちらも秘蔵の立山をアップ。
私の撮った3枚で立派な記事にしていただきました。
BARinの店長、坂本雅央さんとコメントのやりとりをさせていただく中で、「人とつながる」とは、自分の心の虚しさを隙間を埋める作業ではなく、相手の無意識に働きかけ、縁起を図っていく行為なのではないか?と思いました。
ちょうどその頃、鴨長明「方丈記」を読んでいたのですが、人の煩わしさが嫌になり自然を愛するようになった鴨長明のことをやや疑問視していたからかもしれません。
たぶんこの後、BARinの店長、坂本雅央さんとのコメントのやりとりはなく、以前のように単にスターを押す関係に戻ると思います。面倒臭くなったら、それすらしなくなるかもしれません。が、それでも私が生きている限り坂本さんとつながっている、と思います。本当に「人とつながる」ことは、表面上は淡白な関係になるのだろう、そんなことを思いました。
坂本雅央さん、ありがとうございます。
昨日、イオックスアローザスキー場の帰り道、大きな雲を眺めながら運転していたら神社に行きたくなり、越中一宮 高瀬神社に行ってきました。
初めて参拝するのですが、車道をまたがるように大きな鳥居があったのには驚きました。
神社近くを走っていると、両手に松葉杖を持った方を見かけました。夕方で神社の周りはやや暗く、神社に近づくにつれ対向車も多くなってきたことから注意しながらその方を追越しました。
神社の前には一宮橋。
最近石畳の神社が多いのですが、こちらは砂利が敷き詰められていました。
参道を歩いていると、先ほど追い越した足の悪い方が前を歩いていらっしゃいました。拝殿の石段でちょうど追いついたのですが、階段を昇れず困っていらっしゃるよう。これも何かのご縁、と感じ、私はその方が昇ることのお手伝いをすることにしました。その際「どちらの足が都合が悪いのでしょうか?」と訊ねたら「えっ?」とだけ返事をされました。努力はしてみたものの、石段が急な上に、なんとなく私も気合いが入っていなかったため、上手く持ち上げることができませんでした。さらに言えば、おぶって昇ることもできたのですが、私自身に気恥ずかしさみたいのがあったのかもしれません。
松葉杖の方は人に迷惑をかけてまで昇ることはあるまい、と感じたのか、石段を断念。私にお賽銭を託し、石段の下でお参りをされることに切り替えされました。
さて、石段の下のお参りを終え振り返った際、財布を落とされ、中の小銭が飛び散りました。慌てて拾おうとされた際、転倒されました。石段を昇らせることができなかった後ろめたさがあり、松葉杖の方をぼっとながめていた私は、思わず駆け寄り、その方を持ち上げることにしました。
背中ごしにその方を引き上げた際、手にずっしりとした重さが伝わり、同時に全てがわかりました。この方は両足が動かないのだ、と。
起き上げ、小銭を財布に入れ渡した際、その方は「石段を無理して上がったものの、そこで転んだら大変なことになった。石段の下で参ってよかった。」と何度も繰り返しつぶやいておられました。転ぶという気恥ずかしいところを見られたことに対する照れ隠しでもあり、参拝で転ぶなんて縁起が悪い、という自身の気持ちを打ち消すようにも思えました。
松葉杖の方を見送った後、私も参拝。この地は、木彫りの里でもあることより、拝殿には見事な龍が掘られていました。
大国主命を祀ってあることより、うさちゃんもいました。
さらには「さざれ石」
国家「君が代」では、小さな石が大きな岩となる歌詞があるのですが、この岩、確かに小さな石が集っていました。どうやら、鍾乳洞と同じ原理で、石灰質で、石同士をくつついているようです。
境内をふらふら散策していたら、縁起物売り場で、先ほどの松葉杖の方を見かけました。あたりが暗くなり、天候もあまりよくなかったので、車で送ってあげようかな、と思ったのですが、その方はそれを察したのか、そして打ち消すように、自然に振る舞っていらっしゃいました。
今年の神社参拝、高瀬神社で10社、述べ13社となりました。どの神社でも祈ることはせず、場の空気を味わうことに留めました。「祈る」ことはもちろん「感謝」することもしませんでした。
最近、「無意識」についてアプローチしているのですが、世の人が「神」というのは、無意識の中にある自己なんじゃないかな、と納得できるようになってきたためです。
転倒された義足の方を持ち上げる際、ずっしり伝わる身体の重さと、私の手から伝わるかすかな温もりに、「絆」とか「つながり」というのは、世間で言っているような薄っぺらなものではなく、神々しいものではないか?と思いました。転倒された義足の方は私に持ち上げられて、気恥ずかしいと感じているかもしれませんが、私自身、儒教でいう「惻隠の心」というものを感じることができたのは貴重な体験。無意識を知る上では、参拝以上に意味があった、と思います。
「思わず神社に行きたくなった」「思わず人を助けたくなった」の「思わず」。マーケティングに利用した場合、売上倍増につながります。私自身もマーケティングという仕事のの中で「思わず」を研究しているのですが、今年の「思わず」の研究は、今までにも増して崇高なものになる予感をさせる神社参拝となりました。
ホームページのブラウザをexplorerからGoogle Chromeに切り替え、ブログの閲覧を「おきにいり」の「フィード」からGoogleリーダーに切り替えて2日目。すっかりGoogleにはまってしまいました。
表示の速さに加え、情報を集める便利さ、手軽さは感動物です。
Google の「送信先」機能を使用すると、Twitter、Facebookなどと簡単に投稿を共有できるようで、PCをわかっているようで、全く使いこなしていなかったなぁ〜、と反省。個人的には「情報の拡散」って安直な言い回しは好きになれないのですが、「送信先機能」を使うと検索エンジンに頼ることなく、情報を多くの人に広めることができそうです。
個人向けの年賀状は投函したのですが、会社、さらにいえばホームページのお客さん向けの年賀状は手をつけておらず。今朝、作業をいたしました。
テーマは「泣いた赤鬼」。ビジネス向けなので、仕事にからめ、さらに売上げ向上につながる内容じゃないと面白くない。ということで、文章は結構悩みました。ある程度まとまったので行動に移します。
取り出したるは、学童書道セット。思いをぶつけてみました。
美空ひばりは、レコーディングの時に「一回しか唄わないからね」と言い、ノーミスで決めたそうです。それを見習い、私も一球入魂!練習なしで本番です。
(クリックしたら拡大します)
「泣いた赤鬼」のお話では、「赤鬼」と「青鬼」は、別の人格としました。が、今回の年賀状では、一人の人間に赤鬼的要素と青鬼的要素がある、と考えました。売上げを伸ばそう、もっと贅沢をしたい、と考えるのが赤鬼的要素。ただ、無理して伸ばそうとすると、どうしても犠牲が出るのも事実。雑なサービスをしたり、法外な金額を吹っかけたり。ただ、そんなことをしていると自分の中に罪悪感が発生するのも事実。そんな良心ってのが青鬼的要素なのだ、ともいえます。
人は欲がないと生きていけない。キレイごとだけだとホームレスになってしまう。疲れているときは好きにさせてくれ・・・。ただ、そのために発生する犠牲もあると思います。そんな犠牲のことを配慮、反省しながら前に進む、これがビジネスにおいて大切なのだ、と思います。
「この客からいくら取ってやろうか」と思う気持ちはアダムスミスや石田梅岩が説いている通り、健全です。資本主義は欲があったからこそ発展し、今のような幸せな世の中になったのだ、と思います。ただ、発展という赤鬼的要素だけでは行き詰まりを感じているのが今の時代なのではないか?ともいえます。自分や、自分の会社の青鬼的要素を思い出すとき、自分の中にある無意識の自分とトモダチとなれ、赤鬼的な自分はそのトモダチによって益々生き続けるのだ、と思います。