2012/01/01

初詣歩こう会2

挨拶と説明の後、護国神社へ。先頭の方は旗を持って、その後にぞろぞろと続きます。

思想の入った団体の初詣とでも思われたのでしょうか、途中で車の窓を開けて新年の挨拶をされるドライバーがいらっしゃいました。一同、大爆笑。

6時20分。護国神社到着(私個人は神社2社め)

護国神社は、戦没者を祀ってある神社。個人的には、戦没者というより歴史や事象をお詣りするようにしています。

考え方としては二宮尊徳を参考にしています。

正月なのでお餅で例えると、お餅をひっぱって小さな塊にしたのが個人なのだ、と思います。では、ひっぱる前の塊は何か?と考えると、それが神なのではないか?と。戦没者を追悼しつつ、その上にあるモヤモヤとしたものを詣るのが自分流です。

生きている限り、あらゆるものの関わりの中に身を寄せています。自我が強ければ、自我の諸刃は自分を傷つける。自分が正しいと思い正義のために戦うことによって、犠牲がでる。では、正義とは何か?と考えるための場ともいえます。日常の忙しさの中で忘れそうになるこのような考えを思い出すのが神社なのだ、と思います。

絵馬コーナーも準備万端でした。

続いて鹿島神社へ。(私個人は神社3社め)

私のお気に入りの神社です。大国主命を祀ってある神社。今年は古事記ができてから1300年。社史なんてのを作る際に、自分の会社の悪いことを書かないようなところ、古事記にもあります。が、歴史の中で生き残ってきたのはすごいところ。神話の神様は実在するとは思えないのですが、スピリッツを感じることが日本人として大切なのだ、と思います。

6時46分。空が明るくなってきました。

めざすは日枝神社。

続きは「初詣歩こう会3」で。

2011/12/01

神社詣り

早いもので12月になりました。毎年月の初めは、神社と墓参りに行くのですが、今日も朝一番で済ませてきました。

神社は車が停められる護国神社。

空は薄暗く、灯りが点っていました。

西町方面はこんな感じ。立山が神々しいです。

神主さんが落ち葉掃除をされていたのですが、私に気付き、太鼓を叩いてくださいました。朝の神社は清々しい気持ちになれます。

今後訪れるのは、元旦。今日と違い、人で賑やかになりそうです。

2011/11/01

一日

今日は、月の初め、一日ということで恒例の神社参拝と墓参りに行ってきました。

ファミリーマートで墓にそなえる花を購入。こちら、コンビニなのに新鮮で、かつボリュームがあります。一度、購入してから他では買えなくなりました。

その後、護国神社へ。大きな神社では、毎月一日は太鼓を叩いてくださり、より霊験あらかたな気持ちになれます。

桜の木もやや茶色がかってきました。

駐車場側は、金属製の鳥居。

緑に染まる鳥居と、秋の葉の茶色。ふと、鳥居が建てられた頃を思い描いてしまいました。

護国神社前の道。街路樹は紅葉していました。

秋は見るもの全てが芸術で、見ているこちらもいろいろなことを考えることのできる楽しい季節です。

2011/05/25

於保多神社

昨日に続いて於保多神社に参拝に行ってきました。

ここは、以前北陸道にあたり、前田家ゆかりの神社。昔は祭りといえば、柳町通りまで露店でいっぱいだったのに、今は静かなものです。

私自身、神社を、露店の多さや参拝客の多さで格付けしてしまう悪い癖があり、いけない・・・。霊性なるものは数えられないものなのです。

昨日は、拝殿から本殿に布が渡してあったのですが、

昨日、神様が山車にのられるために、本殿から降りられたためなのでしょう。

今朝は、布はありませんでした。

あと数十年もすれば、神社のあり方ってのも変わってくると思います。いずれ、ヴァーチャルに創られた神域で参拝するのでもいいのでは?といった思想がおこると思います。やや寂しくもありますが・・・。

街中は、高齢者化が進み、紙垂を中止するところが多くなりました。

街に活性化を!と叫ぶ傍らで、非常に高速に高齢化が進んでいるのだと思います。

2011/05/24

春祭り

明日は、近所の於保多神社の春祭り。神主さんたちが忙しそうに準備をされていました。

於保多神社は菅原道真公を祀ってある神社。菅原道真公が牛とゆかりが深いことから境内には多くの牛の像がありますが、全てに赤い前掛けがかかっていました。

椿三十郎では、うるさい田中邦衛に対し、「おめえ丑年の生まれか? いちいち突っかかってくるが」と突っ込まれていました。

菅原道真公も突っかかってきたので、左遷されたのかもしれません。

境内を回っていると、倉庫に入っていた山車が出てきました。

神様が降りてきて、山車に乗られるという想定。実学の福沢諭吉は、神仏の存在を疑問視していました。確かに多くのことは、学問で証明できる時代となりました。

が、証明できることが多くなればなるほど、証明できないことも増え、その溝が深くなっているような気がします。神の存在を作ることは、人が無能であることをわからせる「リセットボタン」なる存在なのだ、と思います。