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「人間」を観る―科学の向こうにあるもの

「人間」を観る―科学の向こうにあるもの

「人間」を観る―科学の向こうにあるもの
田代 俊孝著

この本が書かれたのは2005年。今から約8年前になります。その間も科学は進歩し続けていたのでしょうが、科学のキワドさも明らかになりました。科学というのは、人間の暮らしを豊かにするもの、と思っていたが、使い方次第では大変なことになる。戦争や、今回の地震の天災に続く人災のとき、人は科学、さらにいえば科学を扱う人の心の難しさを思い知ったのだろう、と思います。

科学よりも先に人間を知ること、これがこの本のテーマなのだろう、と思います。人間っていったって自分はこの通りだ、と思うのですが、自分ほどわかりにくいものはない。さらに社会なんてのも見えない。

今度、富山でフェルメール展が開催されます。昨年、余程東京まで観に行こうか、と思っていたのですが、その後、地方を巡回するとは思っても見なかった。このフェルメールにかかわらず、画家というのは生きている時代はなかなか評価されず、死んでからその作品が評価されることが多い。フェルメールも最近になって急速に持ち上げられました。

フェルメールの良さをわかっている人がどれだけいるか?といえばやや疑問。東京まで観にいこう、と思っている私自身も良さはわかりません。皆がいい、というからいい、と思う感じ。絵画を鑑賞に行くと、決まって正装してこられる方を見るのですが、絵画展に行列ができたり、そういった正装を見ると、なんだかわからないけど価値があるものだ、と脳が勝手に判断してしまいます。そして、有り難いものを見た、と自分自身、納得してしまう、否正確な言い方をすれば、自分自身を納得させて封じ込めてしまう。そんなもんなんだ、と思います。

科学もこれによって文明が進歩する、と言われれば、手に取らなければ損をした気分になる。人とはそんなはかない存在であることに気付かなければならないのだろう、と思います。

羅生門

この本は5人の方によって書かれているのですが、その中で養老孟司さんのものを読みたくて借りてきました。養老孟司さんの書かれた文の中で黒澤明の「羅生門」について書かれているところが衝撃的でした。

映画「羅生門」では、強盗、強姦をした犯人が裁判所のようなところに連れて行かれた際、そこで、強盗、妻、殺された夫の代わりに巫女、ってのが証言をするのですが、それぞれが自分の観た世界を語るので、話が全部異なっている。そこで物語が終わる、というもの。

このような考え方はアメリカではありえない、とのこと。アメリカではこのような場合に、3人の現実以外にもう一つの現実がある、ということ。その一つが客観的な現実で、神のみが知る現実なのだ、と。

神に近づこうとするのは、その現実に近づこう、とすること。アメリカの場合には、何をするにも目的がはっきりとしているので動きが取りやすいのに対し、日本は、目的を持つ、といった思想に対し担保が何もない。

日本人よ!元気を出せ!

震災後にこのようなスローガンが出てきましたが、アメリカ人が「U・S・A」と叫ぶような盛り上がりを見せなかったのは、目的なく生きる国民性だからなのだろう、と思います。ただ、このような国民性だからこそ、多面的に物事を捉えることができる特徴もあるのだ、と思います。

さらに考え方を発展させると、価値観の相違に対し柔軟に対応しきれる国民性なのだろう、と思います。物販でいえば、顧客ニーズとでもいいましょうか。そういった部分に敏感な国民性といえるのだ、と思います。

「人間」を観る―科学の向こうにあるもの

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