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神仏に感謝するとはどういうことなのかわかる本

いらないものを手放せば、もっと自由になれる [愛蔵版]捨てちゃえ、捨てちゃえ

いらないものを手放せば、もっと自由になれる [愛蔵版]捨てちゃえ、捨てちゃえ
ひろさちや (著)

私はほぼ毎日、3回神仏にお参りしています。家を出る際、神社で買ったお札に1回目。石倉町にある延命地蔵で水をいただいた際、お賽銭を入れて2回目。そして会社の神棚が3回目です。会社にある神棚は最近実家から持ってきたものです。

3回も参るって暇だと思われるかもしれませんが、習慣づくと参らないと気持ち悪くなります。歯を磨いたり、顔を洗ったりする際、いちいち虫歯にならないように、とか、角質や汚れが取れますように、とか考えず無意識にするのと似ています。自然体でお参りできるのです。

今回読んだ「いらないものを手放せば、もっと自由になれる [愛蔵版]捨てちゃえ、捨てちゃえ」でも神仏への参り方について書かれています。

その中では、願いを叶えてもらうために神仏に祈る、という行為そのものが間違っている、と戒めています。神仏に願いを祈る、というとなんだか良さげな行為に思われるかもしれませんがしれませんが、欲を満たしてもらうために祈るというのは執着そのものだ、と言い切っています。

何のために祈るのか?

私も以前は、欲を満たしてもらうために祈っていました。その後、そういった祈り方はよくない、と気付き、何も思わないで祈ることにしました。その時間だけ「無」の状態でいよう、と心掛けて祈るのです。ただ、そう簡単に「無」の状態になることはできません。

よく感謝の心をもって神仏を拝め、といいますが、感謝の心を持つことは難しいと思います。まず「感謝」って何よ?という議論があります。世の中では「感謝」という言葉が使われていますが、言葉だけが一人歩きして「感謝」って何かわかっていない人が多いような気がします。

人にやさしくしてもらったときに、「ありがとう」と返事します。感謝ですね。何かをしてもらって助かったときに感謝する、と理解すると、神仏に何を感謝したらいいのかわからなくなりませんか?

また、神仏に感謝の気持ちを持たなくても生活そのものはおそらく変わらない、という思いも感謝の心を見えにくくします。初詣にしか行かない人でも、自分と同じように暮らしています。逆に信心深い人が早死にするのを見ると、感謝したところで意味があるのだろうか、と考え込んだりもします。

さて、著者はそういった神頼みや契約的な感謝は、貪欲だと言い切ります。

こういった貪欲的な祈り方をするのではなく、日常生活の中で当たり前だ、と思っていることに気づくことが、感謝なのだ、とこの本を読みながら何となく思いました。「ありがたい」とは漢字で「有り難い」と書きます。あるのが難しい状態です。そのような状態にあることに対し起こる感情が本来の「ありがたい」であり、「感謝」なのかもしれません。

感謝の本来の意味がわかれば、わざわざ神仏を拝まなくてもいいような気がしてきます。車の運転をしている際、車線を譲ってもらったら感謝。集金にいったら、お客さんがお金を払ってくれたらこれまた感謝です。

この本では、ありがたい、と思ったら、その人に返すのではなく、他の人に与えてあげるのがいい、とも述べておられます。そうすると一人よがりな貪欲も消え失せ、楽しく毎日を過ごせるようになるのかもしれません。

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